2013年3月11日月曜日

「忘れちゃだめだっぺ」

2年前の今日、東北で起きた震災のことは
やっぱりわすれちゃいけない。
 
亡くなられた方のご冥福を
心からお祈り申し上げます。
 
自己満足になるので、書くか迷ったのですが、
「書かないよりか、忘れかけたことに罪悪感が
湧いてくる日を思ったら書いた方がましだっぺ」
っともう一人の自分が言ってるので
もうすぐ12日になってしまう前に
震災当時に感じていたことを
やっぱり忘れないように書いておこうと思います。
 
2年前1426分は
当時の勤め先で仕事をしていました。
 
あまり揺れることのない八ヶ岳
こんなに揺れるとなると
震源地は大変なことになってるんじゃないか!?
と思い、近くにあったTVをつけました。
 
数分後に停電になるのですが、
目に入ってきたのは
中学生時代部活で散々走ってきた
津波が襲い
車が沢山流されていく場面でした。
 
字幕になじみのある港の名前が
目に入る前に気がつきました。
 
鳥肌が立ちました。
 
情報がもっと欲しい!!
と思うのと同時に停電になり
まったく状況がつかめなくなりました。

まさか自分の田舎が・・・・
 
すぐに頭に浮かんだのは
故郷に住む家族の安否。
 
特に妹の家は海岸から歩いて数分
潮風の漂う場所、
 
そこから約200メートルのところに兄の家
さらに内部にいくと両親の家
 
直ぐに身内に電話をかけて安否を
確認したくてもまったくつながらない状態でした。
やっぱりだめなのか!?
津波にのまれてしまったのか!?
不安が胸をよぎり落ち着かない状態でした。
 
何度も何度もかけ続け、
1時間後
奇跡的に最初につながったのが妹でした。
 
「どうした?大丈夫??」
 
の問いかけに妹は
 
「もうぐちゃぐちゃ、家に住めないよぉ~」
 
と泣きながら答えていたのを鮮明に覚えてます。
 
すぐに近くの小学校のグラウンドに避難して
近くに住む義理の姉と一緒であることは確認できました。
ただ、本人も家族の誰とも連絡がついていない様子で
誰の安否も確認出来ていない状態でした。
 
こんな思いをした人が必死になって
電話をかけていたら確かに電話はパンク状態でしょう。
それでも必死に電話かけ続けました。
 
次に電話がつながったのは兄でした。
勤務先にいた兄もまた誰とも連絡がついておらず、
妹と兄家族も無事であることを伝えました。
兄の勤務先は港の近く、
 
「海の水がどんどん引いていってる」
 
と言っていたのも鮮明に覚えています。
色々と状況を聞きたい気持ちもあったのですが、
 
「今、会社が大変だから・・・また」

といって兄は電話をきりました。
 
兄との電話の後はしばらく誰とも
連絡がつかなくなりました。
 
保育園にいた長男と共に自宅に戻ると
家内の車は無く、
駐車場にサイドミラーが転がっていていました。
程なく家内が娘を連れて戻ってきました。
サイドミラーが転がっていた理由を聞くと
最初の揺れの後、慌てて施設に預けていた
娘を迎えに出たそうで、出庫する際に
2度目の揺れにあって壁にぶつけてしまったとのこと。
大事がなくてホントよかった。
 
その後、あきらめず電話をかけ続け、
ようやく実家の両親と叔母に連絡がつき、
海の近くに住む家族については
全員安全の確認ができました。
 
叔母へは妹と義理の姉、
兄の安全と居場所を伝えました。
 
叔母に状況を聞くと
家の中は兎に角グチャグチャだと言うこと
津波は大丈夫だったということ
余震が続いているということ
 
私ができることは、自分の知識で
アドバイスすることしかできませんでした。
 
まず、がもうすぐ止まるはず、
もし水が止まったら、兄の家と妹の家は
エコキュートだからそのタンクに入っている水を
使うように言いました。
 
それから兄の家には太陽光パネルがあるので
少ない電力ならそれでまかなえることと、
携帯電話充電を欠かさずするように指示しました。
 
それから直ぐに近くのスーパーに食料の調達へ行くように
アドバイスをして、叔母はその後すぐにいったようです。
 
夜がやってきました。
停電の高原は怖いくらいに真っ暗です。
有り難いことに我が家には
薪ストーブ蓄熱暖房があったので
寒さに震えることはありませんでした。
食事も近くのコンビニで食料を
調達しておいたので特に困ることはありませんでした。
ただ、この停電がいつまでつづくのか・・・
不安に思ったのを覚えています。
 
決して眠れる心境ではありませんでした。
弟の安否の確認が取れていません・・・
 
家族が寝静まった後
カーナビの付いた車に乗り、
ワンセグが受信出来る隣の市まで
車で移動をして情報を得ました。
 
映像は誰もが知るように
想像を絶する内容でした。
ただ、どうすることも出来ず
家に戻り、連絡の取れていない
弟、親戚の安否を祈るばかりでした。
 
翌朝、震災の影響は我が家にも・・・
我が家のエコキュートが停電のため凍結していました。
まったく、プロのくせに
自宅のことをまったくきにしていませんでした。
 
もちろん、同じような事故が
ご近所のあちこちで多発していました。
その日の私の仕事は
停電の影響で困っていたお客さんたちの
アフターメンテに駆回りました。
 
そんな中、ラジオからとんでもない情報が・・・
 
福島第一原発
 
実家の近くにも原研がある・・・
 
車を止めて再び電話をかけまくり
だれでもいいからつながれっ!
と必死になっていました。
 
兄の携帯電話の留守番メッセージへ
 
「そとに出ないでください。窓も閉めて!」
 
これしか入れることができませんでした。
 
あとで話を聞いたところ、
やっぱり何の意味かわからなかったそうです。
 
被災地側はまったくと言って情報が入って
来ていない状況で、原発のことなどは
後で知ったようです。
 
2日目に再度、叔母と連絡がつき、
叔母、兄の家族、妹の家族とも
両親の家に避難したということでした。
 
その後、弟の安全も確認でき、
叔父、叔父の家族も無事が確認できました。
叔父に確認したところ、近くの原発は
津波の影響は受けず、地震の際に
緊急停止をしたそうでした。
 
徐々に状況がわかるにつれて
私の心も揺れ動きました。
 
電気がない
水がでない
ガスもない
食料もない
 
今すぐ救援物資をもって現地に向かいたい!
でも現地に向かう道が落石などで通行止
 
運輸会社に勤めている友人に状況を聞いても
今は無理だという回答でした。
 
ただ、いつでも物資を送れるようにと
買い出しだけはしておこうと
お店にいったものの
あらゆる物が品切れ状態・・・・
 
せめてだけでもと
小さな売店、目立たない場所の自販機も
あたりましたが全て売り切れ・・・
 
TVを見ると自衛隊が被災地各地へ
救援に向かっている様子が見受けられました。
 
物流もたたれ、あとは自衛隊の救援がくるのを
待つしか無いのか・・・
 
実家へは、もうすぐ自衛隊がくるから
それまで我慢してねとだけしか言えませんでした。
 
これも後からきいたのですが、
結局、自衛隊は来なかったそうです。
 
自衛隊が行ったのは、もっと内陸部の
被害の少なかった場所で、
被害の多かった沿岸部には来なかった・・・・
 
そのあと新聞ニュースにもなりましたが、
実家のエリアは地方局がないため、
ニュースに出ることも、
被害状況も報道されることがほとんどなく、
被災地支援が十分でなかったことを
嘆いた投稿が多々あったのを目にしました。
 
私が最初に見た地元の映像はたまたま
だったようです。
 
被害の多かった地域よりも
復旧の早かった地方の報道
が多かったのをイライラしながら見ていたのを
思い出しました。
 
実家での避難生活はしばらく続いていました。
ガソリンもなく何処にも移動できない。
トイレの水が流れないので
近くのドブ川に行ってバケツで水をくみ上げ
トイレタンクに入れて用を足していたそうです。
 
「大丈夫だよ」

と言っていた母が
 
「出来れば水と食料を送ってほしい」

と言ったのは4日目ぐらいだったと思います。
 
相変わらず水は手に入らず、
関西なら手に入るかもしれないと
義理の母、義理の弟に連絡をして
水を送ってもらうことにしました。
ただ、関西でも水は入手困難で、
義理の弟がポリタンクに水を入れて
送る手配を取ってくれました。
 
徐々に物資の供給が始まり、
確か5日目あたりに電気復旧し、
しばらくたって水、ガスの復旧がされたような
感じだったと思います。
 
叔母の話によると給水車
毎回長蛇の列だったそうでが、
エコキュートのアドバイスをしておいたので
私の家族は並ばないで済んだようでした。
 
づっと断られていた救援物資配達の依頼も
配達担当の人がいつも気にかけてくれていて
受付開始をすぐに教えてくれました。
 
すぐに物資の発送をしました。
そして徐々にいつもの生活に戻れるよう
皆が動き始めました。
 
三陸沖の被災程ではありませんが
家族が受けた精神的なダメージ
経験をしていない私には想像がつきません。
幼い甥っ子には未だに
精神的なダメージが残っているようです。
 
今でも帰省をすると実家のヒビの入った壁を目にします。
未だにブルーシートのかかった家も見受けられます。
 
今では実家に帰っても震災のは誰もくちにしません。
ただ、あの時の救援物資は有り難かったと
それだけは毎回言われます。
 
南相馬には友人が住んでいます。
いい腕をもっている大工さんです。

昨年、救援物資を送ったお礼に
わざわざ八ヶ岳まで訪ねてくれました。
 
仕事はいくらでも作るから
八ヶ岳へ移住するようにと話をしたこともあります。
ただ、事情があって土地を離れることができません。
高い放射線量の地域に今も住んでいます。

「どうしようもないんだよね・・・」
 
と呟く友人の言葉が今も頭に残ってます。
友人は言いました。
 
「TVで報道されていることはまだいい方だよぉ、
実際には生き残っても苦しみに耐えかねて
自殺していく仲間も結構いるんだよねぇ・・・」
 
今できることってなんだろう。
たぶん、日々薄れていくこの記憶
この出来事を忘れないこと
なんじゃないかな
 
故郷言葉で言うと
 
「忘れちゃだめだっぺ」
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿